法然が自らの思想を著わしたものとして『選択本願念仏集』があります。 この中に、専修念仏の教えが明瞭に説かれています。
「速く生死を離れ、救われるためには、難行の道である聖道門をさしおいて、易行である浄土門を選びなさい。浄土門の中でも、雑行を捨て、正行を選びなさい。正行とは『浄土三部経』の読誦、極楽浄土の
あり様の観察、阿弥陀仏を礼拝すること、仏の名を称えること、仏を賛歎することである。これらの正行中、 正定の業である仏の名を称える称名を専らにしなさい」
と。
さらに、同書の他のところには、「仏像を造ること塔をたてることなどは、往生するための条件とはならない。 ただ称名の一行だけである。」とも説かれています。
このようにみてくると、法然の教えは、ただ一生懸命、南無阿弥陀仏と称えなさいということになり、事実、法然白身、一日何万遍という念仏を称えています。
ー方、すべての行から称名念仏の行を選びとった法然であったが、逆にまた、念仏の行の助けとなるもの(助業)を認めている文も
みられます。 「この世をすごすありようは、念仏の称えられるようにしなさい。念仏を称えるさまたげになれは、それらをすてて、念仏をしなさい。
聖で念仏を称えることができないなら、妻を もうけて称えなさい。妻をもうけて称えることができないなら、聖で称えなさい。一ヶ所に定まって称えることができないなら、場所をかえて称えなさい。場所をかえて称えることができないなら、家にあって称えなさい。
(中略)一人で称えることができないなら、同朋と共に称えなさい。同朋と称えることができないなら、一人籠居して称えなさい。衣食住の三は、念仏をするための助けである。
これは自らが安穏に、念仏往生するための助けである。」(「禅勝房伝説の詞」)と。
ここには、念仏が称えることができるよう になるのであれば、一切の助業も認めるという考え方の萌芽をみることができます。このような寛容な側面もあったため、専修念仏を宗の基本にしている浄土宗に漸次、専修念仏以外の要素が入り、現在の教団では、ダラニ信仰、造塔、施餓鬼会などが行われるようになったと考えられるのです。
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