仏像のおこりはいつ頃か
お釈迦さまがお亡くなりになったのは紀元前383年と推定されています。悟りをひらかれて、すばらしい教えを説かれたお釈迦さまを慕っていた人々も、すぐにはお釈迦さまの像を造りませんでした。それは、古いインドの人々の考えとして、限りない徳をもっていて神聖なる存在である仏さまを、限られた形にしか表わせない像に造るということは許されないという宗教的な感情をもっていたからです。
同じように、聖なる言葉も、便宜的で有限な文字で表わすことはできないといって、文字をつかわずに口伝えで伝えられていたというほどだで、それは徹底しており、とくに仏さまが理想化され、超人化されるにつれて、教理的にも仏像に造ることは許されないものとなっていきました。
西暦前2世紀から西暦後1世紀に造られた仏伝図の彫刻には、仏さまがおられるぺきところには菩提樹・法輸・仏塔・仏足跡などが、仏さまの象徴として刻られています。
「菩提樹」…お釈迦さまがこの樹の下で瞑想して悟りをひらかれたと伝えられているので、悟りをひらいたお釈迦さまを意味します。
「法輪」・・・お釈迦さまの説法を転法輪(てんぽうりん)といって、お釈迦さまが説かれた法が全土を覆っていくことを表わし、仏法を象徴します(現在でもこの法輸は仏教の象徴として使われている)。
「仏足跡」・・・仏さまの足跡を画くことによって、仏さまがそこに居られるとみます。
仏像として独立して造られたのは、2世紀の前半頃からといわれていますが、初めは仏さまを造りながらも、それを菩薩像と称していた形跡がみられます。有部(うぶ)の「十誦律」にスダッタ長者がお釈迦さまに仏像を造るこをお願い出たところ、仏像は許されなかったが菩薩像は造ってもよいと許しがでたということが記されています。
これは、仏教徒の心情として、礼拝の対象である仏像の出現を望んでいたものが、お釈迦さまの言葉をかりて「菩薩像」を許すということで仏像を造り出していったのであろうと推定されます。
西北インドのガンダーラとマトゥラーで仏像が造られたことにより、すぐ、中インド、東インドの各地にも仏像が造り出されていきました。そして待ち望んでいた仏像の出現によって、それまでの仏教の信仰形態が、現世利益の祈りを包んで大きく変化していったのです。
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