法事の由来
<法事>とは、追善供養ともいい、亡霊の冥福をねがって供養することで、ほかには追修・追薦・追福などともいい、ともに仏法僧の三宝に供養し、法という精神的な安らぎの施しと、財という物質的な施しを満足させることによって、その功徳を回らし向ける宗教行為といってよいでしょう。したがって法事は、あくまで仏法上の行事であるとすれぼ、仏教が成立したときから存しているともいえましょう。
経典などの記録から、いい伝えによると、インドのコーサラ国王・プラセーナジト(波斯匿王)が、父王のために諱日に、お斎を設け仏陀や僧を招いて供養し、説法を乞うたとされています。
波斯匿主は、シュラーヴァスティ(舎衛城)に住み、釈尊と同年生まれで、仏陀に帰依し、仏教の保護に勤めた人であり、釈尊がコーサラ国に宣教の道を開きえたのは、国王の力によったものであるだけに、報恩の施行・すなわち<法事>を修したということも、当然ありえたことでしょう。
さて、死後の霊を弔うという行法は、実に古くから存していました。特にわが国では、<忌服・服喪>といい、遣族のものが、ある定められた期間「喪屋」とか「忌屋」と称する建物の中に入り、喪服を着て、いわゆる忌みごもりをしていたということが記録に残されています。
これは、わが国の風習であるばかりでなく、中国から儒教思想の移入によっても、さらに強化されたようです。
ところが、人の死後、四十九日間を<忌中>といい、この期間が過ぎた日をもって<忌明>というのは、インドにおいて、すでに行われてきたことです。それは、人間が生前なした行為の結果、いわゆる業によって、次の生へと輪廻してゆくという考え方があり、これを「輪廻転生」といい、人間が死滅して次の生に生まれ変わる間のことを、<中陰>といったのです。
<中陰>は、また<中有>ともいい、有とは存在という意味で、今現に生きつつある生存が<本有>で、それが終わって、次の生が始まる<始有>とのあいだの中間存在が、ここにいう中有です。
しかし、本有のうち極善と極悪の業をなしたものには、中有はないとされ、死後ただちに次の生に移るとされるが、短いものは七日、もっとも長いときは四十九日間の中有があるとされていました。
このような考え方から、七日ごとの仏事を営んで、亡霊を供養するという、ならわしが生まれ、すでにインドで定着した形となっていたのが、今日の<法事の原形>であることはいうまでもありません。
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