歴史と教え

大満寺の歴史(2)

栄枯盛衰は、歴史の流れにつきものです。

天正5年(1577年)

中古荒廃無にして千躰仏も散失し荒れるがままになっていた時代、今から444年前
正新町帝の天正元年(1573年)、龍泉院三世量山廣寿和尚が虚空蔵堂を再造して大満寺を中興しました。この頃から、大満寺は、曹洞宗になったのではないかと推測されます。大満寺が中興される以前の歴代の住職は不明で、それ以前は、密教系の天台宗か、真言宗でないかと憶測されます。

慶長5年(1600年)417年前

藩祖政宗公が仙台城を大規模に築城するにあたり、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂は経ヶ峰に遷座し造営されました。

万治2年(1660年)

伊達第2代藩主忠宗公葬去により忠宗公の遺言もあって、政宗公霊廟近くに感仙殿を造営することになりました。経ヶ峰は高低あり、適当な場所がないので、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂の所在地が平坦で最適地なために、これらを、現在の愛宕山の西と、その麓に遷座させました。この時の普請奉行が、小説『樅の木は残った』で有名な、原田甲斐宗輔でした。それから約400年、現在地の向山に鎮座ましましています。

歌舞伎で知られる「伽羅先代萩」をからめて書かれた「樅(もみ)の木は残った」は30余年前のNHK大河ドラマの主人公となった原田甲斐が移築奉行として、現在の愛宕山の西の地に遷座させたと伝えられております。原田甲斐お手植えの大銀杏と山中に点在する樅の木の老樹が山の緑を深くして、その信仰の深さと歴史の長さを偲ばせております。

大満寺は2代忠宗公により開基されました
万治元年(1659年)7月12日逝去

享年60才で亡くなられ、大慈院殿前羽林義山崇仁大居士という法名で大満寺に位牌寺として三十六石の領地を奉納寄進されました。現在の愛宕中学校所在地より八木山に到る長峰一帯は大満寺の薪領地でした。藩主伊達家から禄をいただいていたため、寺院運営が保障されていました。そのため、当時はほとんど檀家がなかったようです。

 

大満寺歴代住職 

住職紹介

 

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世代 歴代住職
開 山 當寺開闢實底祥秀大和尚 洞雲第十一世(龍月院開基)
一 世 當山中興量山廣壽大和尚 龍泉第三世
二 世 定山了禅大和尚
三 世 明室慧燈大和尚
四 世 光麟洞宗大和尚
五 世 天山祖海大和尚
六 世 秀山宗建大和尚
七 世 安榮昌穏大和尚
八 世 鐡鼓了能大和尚
九 世 大陽観月大和尚
十 世 宗本瑞天大和尚
十一世 法山龍鳳大和尚
十二世 日山瑞光大和尚
十三世 竹鳳霊鳳大和尚
十四世 楊山法雲大和尚
十五世 玉洲得峰大和尚
十六世 大定慧海大和尚
十七世 禅玄靈定大和尚
十八世 雲山吟龍大和尚
十九世 大田秀苗大和尚
二十世 空玉霊印大和尚
二十一世 瑞雲昇龍大和尚
二十二世 天外硯龍大和尚
二十三世 佛戒孝順大和尚
二十四世 自秀文苗大和尚
二十五世 覺了淳禅大和尚
二十六世 宗峰海心大和尚
二十七世 栄山俊吾大和尚
二十八世 弘徳正瑞大和尚
二十九世 篤宗實童大和尚
三十世 當山再中興 金剛禅貞大和尚
三十一世 當山重興  寶山廣宣大和尚
三十二世 至浄円明大和尚
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