政宗公は、唐詩選をふまえて歌を詠んだ。
入りそみて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ
栄枯盛衰は、歴史の流れにつきものである。天正五年(1573年)に、中古荒廃無にして千躰仏も散失し荒れるがままになっていた時代、今から401年前、正新町帝の天正元年、龍泉院三世量山廣寿和尚が虚空蔵堂を再造して大満寺を中興した。この頃から、大満寺は、曹洞宗になったのではないかと推測される。大満寺が中興される以前の歴代の住職は不明である。それ以前は、密教系の天台宗か、真言宗でないかと思われる。
慶長五年(1600年)383年前、藩祖政宗公が仙台城を大規模に築城するにあたり、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂は経ヶ峰に遷座し造営された。
万治二年、伊達第二代藩主忠宗公葬去により忠宗公の遺言もあって、政宗公霊廟近くに感仙殿を造営することになった。経ヶ峰は高低あり、適当な場所がないので、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂の所在地が平坦で最適地なために、これらを、現在の愛宕山の西と、その麓に遷座させたのである。この時の普請奉行が、小説『樅の木は残った』で有名な、原田甲斐宗輔であった。それから400年、現在地の向山に鎮座ましましている。
大満寺の開基は、二代忠宗公で、万治元年(1659年)7月12日逝去、享年60才で亡くなられ、大慈院殿前羽林義山崇仁大居士という法名で大満寺に位牌寺として三十六石の領地を奉納寄進された。現在の愛宕中学校所在地より八木山に到る長峰一帯は大満寺の薪領地であった。藩主伊達家から禄をいただいていたため、寺院運営が保障され、そのため、ほとんど檀家がなかったようである。