歴史と教え

境内案内

虚空蔵堂

虚空蔵堂は、江戸時代初期のもので代表的仏道建築として現在、仙台市の文化財になっています。その堅牢さは、昭和53年6月12日夕刻の宮城県沖大地震の時、現在建築よりはるかに木造建築として優れていることを実証させました。

虚空蔵堂の御本尊は、虚空蔵大菩薩で脇仏に日光菩薩、月光菩薩が安置されています。普段は、厨子は閉まっており十二支の丑寅の年に御開帳されます。守護神として、厨子の傍に不動明王、昆沙門天も安置されています。

切り立った崖の上に立つ愛宕山の虚空蔵堂は、江戸時代、城下の風光明媚な展望台で、庶民には参拝と遊山が兼ねられるとあって好評だったといわれています。

参道石段

参道石段も有名で、石段は長く196段あります。1763年(220年前)大満寺11世竜鳳方丈の時、築造完工し、明治41年、石工辻本屋七郎右工門並びに仙台市内九ヶ町講中が施主となり修築されました。

石段下、55年に先住3回忌記念事業として新しく出来た山門脇には鰻の放生の池があり、昔、この池には湧水が出て、うなぎ供養のため、参道入り口で、うなぎ売りから買い求めて、この池に放しました。また、この池は清水のため、目の悪い人が池の水で目を洗うと良くなるという話を古老から聞いたことがありますが、現在は、山の上に住宅が出来て、湧水も枯れ、清水で溢れていた昔日を偲ぶよすがもありません。

本堂

明治維新後、護持をいただいた伊達藩が、廃藩置県に遭い、大満寺も同様、禄を失い檀家がないため、寺院運営にも支障をきたし、窮乏にあえいでいました。

先代30世金剛禅貞大和尚の時代(大正12年~昭和53年)、昭和7年、茅葺の小さな寺から、瓦屋根の立派な本堂と庫裡を再建しました。

この本堂は、庫裡も昭和20年7月10日の仙台空襲で焼け、跡形も無くなってしまいましたが戦後間もなく庫裡を再建し、34年に本堂を再々建しました。

昭和53年春、境内地一角に檀信徒会館金剛閣(30世方丈昭和53年2月12日逝去により先住の法号を取って命名した。)並びに山門が建立されました。

鐘楼堂

虚空蔵堂境内には、仙台市民に親しまれている『朝夕5時になる鐘の音』の鐘楼堂があります。

鐘は徳川家息女を奥方に迎えた綱村公(3代)が、享保4年(1719年)6月に卒去した時、八代将軍吉宗の香奠として白金500枚を受け、その金をもとに享保5年に梵鐘を作らせたものです。

鐘楼堂は、昭和9年12月28日松島湾で遭難した旧制二高漕艇(ボート)部選手11名の供養として明善寮に建てられていたものが、戦後間もなく大満寺に寄贈されたものです。

堂建立主は、名物校長阿刀田令造先生でした。その時の明善寮の鐘は、第2次世界大戦の時供出されています。

千躰堂・八角堂

八角堂

発願して2年経過の後、開創800年、向山遷座400年、大満寺三十世金剛禅貞大和尚七回忌報恩大事業として昭和58年5月、仙台地名由来の千躰仏奉安殿千躰堂、十二支守本尊奉安殿八角堂の落慶を迎えることとなりました。これも偏に、御信仰厚い人々のたまものと、深い感謝の念で一杯です。


千躰堂

 

 

虚空蔵山の南面下には、二十一世紀の新時代の人々の無事安穏を願う霊場浄域とならん事を発願し、二十余年の歳月を経て「平成の大事業」と言われた総檜の本堂と新庫裡の再建も円成し、陽の当たる斜面に新伽藍が燦然と輝いております。
将来の交通事情も考え広く駐車場を設けておりますので、御家族皆様うち揃ってのご参拝を心よりお待ち申しております。

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